阪神電車でよく目にする鉄筋コンクリート製の高架橋。「ビームスラブ式ラーメン高架橋」と呼ばれる、ビーム(梁)の付いたスラブ(床版)と柱が剛接一体となった構造(ラーメンRahmen(独))で、建設コスト、工期、列車運行時の騒音、高架下の利用など総合的に最も優れているとされます。阪神電車でも、戦前に建設された御影駅付近や、戦後の道路交通との立体交差や高潮対策としてのこう(こう)上により生まれた高架橋の殆ど全てが、このビームスラブ式ラーメン高架橋として建設されています。
このラーメン高架橋、一見すると延々何百メートルも連続しているように見えますが、実は構造上の制約により数十メートル毎に独立した構造となっていて、その間に「継ぎ目(接続部)」が設けられています。今回は、その高架橋の「継ぎ目」に着目してみました。
ビームスラブ式ラーメン高架橋の接続部は、主に上記の4種類があります。阪神電車の高架橋には「ゲルバー桁式」と「張出し式」の二種類が見られますが、前者は地盤沈下や列車の荷重によって引き起こされる接続部のズレ(目違い)が生じないというメリットがあり、後者はゲルバー桁部分を後で造らなくて済むため工期が短いというメリットがあります。
阪神電車で最初に建設された高架線は、1929(昭和4)年に竣工した御影、住吉付近です。当時は色々な高架橋の構造形式が模索されていた時代でしたが、当区間では当時最新鋭の考え方だったビームスラブ式ラーメン高架橋が採用されました。高架橋の接続部には「ゲルバー桁式」が採用されましたが、同時期に建設された鉄道省の神戸市内高架線では「背割り式」が採用されています。
高架橋接続部はゲルバー桁式。鉄筋コンクリートで高欄まで一体築造されている。
ゲルバー桁を見上げる。スラブ(床版)だけでなく梁が付いているのが特徴。
御影信号所付近で途切れた急行線の高架橋。ゲルバー桁を受ける筈だった「アゴ」が露出して見える
(おまけ)「背割り式」を採用したJR神戸線の高架橋(ストリートビューより)
戦後、最初に建設された本線・野田付近の高架橋(1961(昭和36)年竣工)では、御影と同じくビームスラブ式ラーメン高架橋が建設されましたが、その接続部は「張出し式」とされました。これは同時期に工事が進んでいた東海道新幹線で標準高架橋として採用された形式で、その後の阪神電車においても、1986(昭和61)年に竣工した久寿川~甲子園間に至るまで、一貫して「張出し式」が採用されることになりました。
1964(昭和39)年に竣工した、西大阪線(現・阪神なんば線)千鳥橋付近の高架橋も接続部は「張出し式」。
新設高架橋として最後の「張出し式」となった久寿川~甲子園間の高架橋(1986年竣工)の接続部。
平成になって最初に竣工したセンタープール前、出屋敷の高架線では、接続部が再び「ゲルバー桁式」となりました。この区間では、阪神電車では初めてスラブ軌道が採用されたため、上述の「目違い」に強いという特性が注目されたのでしょうか。理由はともかく、これ以降の高架橋では、現在事業施行中の青木、深江の高架線に至るまで、全て「ゲルバー桁式」が採用されています。
再び高架橋接続部に「ゲルバー桁式」が採用された出屋敷付近の高架橋。分岐器を含めスラブ軌道が全面的に採用された。
2001(平成13)年に竣工した西宮市内連続立体交差でも、高架橋の接続部はゲルバー桁式(今津付近)。
戦前製の御影とは異なり、ゲルバー桁部はRC(鉄筋コンクリート)製のスラブ(床版)が多い(1998(平成10)年に竣工した、なんば線大物付近)。
2017(平成29)年に竣工した鳴尾付近の高架化以降では、単線片上がり時の耐震性向上のため高架橋の支柱が2列から3列となった。梁仕口(接続部)のハンチ(強度を増すため太くすること)は無くなっている(深江付近)。
1967(昭和42)年に竣工した大石、新在家付近の高架橋は時期相応に「張出し式」が採用されましたが、この区間は1995(平成7)年の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けました。その復旧に際して、損傷した高架橋をジャッキアップして再利用した箇所と、地上部分を全面的に新規築造した箇所が混在することになりましたが、新規築造した個所も「張出し式」で再建されています。
再利用した高架橋(左手前)と新規築造された高架橋(右奥)の接続部。再利用した高架橋の梁にはハンチが付くが、新規のそれにはハンチがない。
元は盛土だった区間に杭と柱を一体構造としたパイルベント方式で再建された石屋川付近の高架橋は、従前に倣う必要が無いのでゲルバー桁式である。