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阪神5700系全編成側面写真資料集」 を更新しました。

間もなく見納め・特高ガントリー

施設 By 鷲羽

かつて、阪神電車を象徴する風景だった「特高ガントリー」をご存知でしょうか。「特高」とは「特別高圧送電線」のこと。阪神電車に乗ると、ひときわ高いガントリー(門型鉄塔)に、ゴツい高圧碍子に支えられた送電線が延々と伸びているのが眺められたものです。そんな特高ガントリーも、2018年春時点では、わずかに本線の淀川~野田間の1km余を残すばかりとなりました。

(2019.2.22追記:当区間の特高ケーブルは計画通り撤去され、鉄骨ガントリーも上部が撤去されてしまいました)

間もなく見納め・特高ガントリー淀川~野田間に林立する特高ガントリー。1962(昭和37)年の野田付近高架化の際に建設されたもので、阪神の特高ガントリーとしては比較的新しい。3本ひと組の特高送電線が山・浜に2系統、逆三角形に配置される(2018年)

間もなく見納め・特高ガントリーこの区間のガントリーは柱脚部が一本のピンで支えられるのが特徴。柱の根元部分が細くできるのがメリットだが、半面、構造が複雑になるため、近年ではほとんど見られない(2018年)

間もなく見納め・特高ガントリー四貫島陸橋から西は1967(昭和42)年の淀川橋梁扛上工事で建設されたもので、特高部がひときわ高く、6本の送電線は横一列に配置。柱脚はピンを使わない剛固定(2018年)

間もなく見納め・特高ガントリー特高ケーブルの終端部、高架下の淀川変電所に高圧ケーブルを引き込む箇所にはステージ付きの特高ガントリーが建つ(2018年)

特高ガントリーとは

間もなく見納め・特高ガントリー近年まで見られた、武庫川~甲子園間の戦前製特高ガントリー(2000年)

阪神電鉄が開業した明治末期はまだ石油ランプの時代で、電気は一部の需要家で使われているに過ぎませんでした。当然、電車を走らせるための電力は自前で賄わねばならず、阪神電鉄は1905(明治38)年の開業時に尼崎と御影に、大正期に尼崎の東浜に火力発電所を建設したのです。当時の送電設備は木柱でしたが、輸送量が増え電力需要も大幅に増加したため、沿線各所に変電所を設け、その電力供給のために軌道上空に「自社送電線」を設置することになりました。こうして従来の木柱は1928(昭和3)年から1933(昭和8)年にかけて、順次門型鉄塔に建て替えられたのです。

間もなく見納め・特高ガントリー創業時の電力需要を担った尼崎発電所(社史「輸送奉仕の五十年」より)

間もなく見納め・特高ガントリー110年余り経った今も庄下川のほとりに健在な尼崎発電所あらため「レンガ倉庫」(2018年)

間もなく見納め・特高ガントリー木柱を鉄塔に建て替える工事(社史「輸送奉仕の五十年」より)

間もなく見納め・特高ガントリー特高ガントリーの標準図(「ハンドブック阪神」1988年版より)

その後、戦時下の電力事業の国家統制により、鉄道用電力も電力会社からの受電で賄われることになりました。受電の分界点は主要変電所または「特高開閉所」と呼ばれる施設で、ここで受電した電力を他の変電所に自社送電線により給電していました。こうした送電方式は、お隣の阪急を初め他の主な電鉄会社も同様です。

間もなく見納め・特高ガントリー1994年頃の送電系統図。この時点では野田・出屋敷の特高開閉所と、東明変電所が受電分界点(「鉄道ピクトリアル」通巻452号、640号より作成)

間もなく見納め・特高ガントリー出屋敷にあった特高開閉所(2003年)

しかし1977(昭和52)年に完成した尼崎~姫島間の高架化(河川扛上)工事以降、特高ケーブルは架空線から軌道横に設けられたトラフ(溝)に収容するようになり、以降、高架化の進捗と共に特高ガントリーが姿を消してゆきます。更に、送電系統の冗長化を図るため、開閉所を経由する従来の方式から、各変電所で直接電力会社から受電する方式が有利とされ、1995年(平成7年)に発生した阪神・淡路大震災の復旧時に春日野道、青木の2変電所が直接受電に切り替えられたのを皮切りに、高架化工事や変電所の設備更新を契機として徐々に切り替えが進み、その度に特高ケーブルが姿を消してゆくことになります。

間もなく見納め・特高ガントリー2017年現在の送電系統図。1994年当時と比べ、東明、鳴尾変電所は廃止、野田は開閉所となり淀川を新設、芦屋は青木に、西宮は今津に、尼崎は大物に、西九条は九条変電所にそれぞれ移転。神戸高速線の編入により大開開閉所と相生橋変電所が加わった。自社送電線は赤丸で示した2か所のみ(「鉄道ピクトリアル」通巻940号掲載図に追記)

2017年現在、自社送電線を使用しているのは野田(開閉所)~淀川(変電所)と、神戸高速線の大開(開閉所)~相生橋(変電所)の2か所で、その延長は6km余(2系統並行しているので実質3km余)まで縮小しています。これらのうち、後者は地下線内のケーブルダクト収容のため目にすることは難しく、冒頭で触れた野田~淀川だけが、特高ガントリーが見られる唯一の区間となりました。これらも、2018年度中に直接受電に切り替えられる計画とのことです。

特高ガントリーいろいろ

今は姿を消した特高ガントリーですが、その建設年次によって形態差が見られました。以下、古い順に簡単にご紹介します。

■御影高架線

もっとも古いタイプの特高ガントリーで、1929(昭和4)年の御影高架線の建設時に設置されました。鉄骨トラスが特高部1段であるのが特徴で、架線を支える横梁は鉄骨アングルの簡易な構造です。全ての架線柱が特高ガントリーを兼ねているため設置間隔がが短いのも特徴で、ぎっしり詰まった高密度感が印象的でした。震災後、低い位置に横梁を新設して、特高部は撤去されています。

間もなく見納め・特高ガントリーぎっしり並んだ住吉駅西方の特高ガントリー。1系統3本の送電線が横梁の上下に逆三角形に配置されています(1991年)

間もなく見納め・特高ガントリー御影駅部の幅広い特高ガントリー(1990年)

■芦屋付近 他

昭和初期に木柱から鉄骨柱に建て替えられた、地平区間で最も一般的に見ることができた特高ガントリーです。鉄骨トラスが特高部分と架線を吊る横梁の2段型で、二本の横梁の間に補助柱が付くタイプと付かないタイプがあり、特高送電線の三角配置も正逆2種類ありました。これ以降の特高ガントリーは、架線柱1本おきに設置されるようになりました。このタイプの特高ガントリーは、芦屋付近を初め、西宮、尼崎市内の地平区間でも見られ、戦災復旧や戦後の施設改良に際して建て替えられたものも混在していました。高架化の進捗に伴い現存するのは芦屋付近だけですが、こちらも特高部は撤去されています。

間もなく見納め・特高ガントリー香枦園駅東方の特高ガントリー。2段の横梁をつなぐ補助柱が特徴。2系統6本の送電線はいずれも逆三角形(1989年)

間もなく見納め・特高ガントリー芦屋駅西方の特高ガントリー。補助柱が無く、2系統6本の送電線の山側3本は逆三角形、浜側3本は正立三角形に配列(1987年)

■西大阪線(現・なんば線)

伝法線として開業した当初は沿線に変電所がなく特高ガントリーはありませんでしたが、1964(昭和39)年の西九条延伸の際に西九条変電所が建設され、特高送電線が新設されました。この区間の特高ガントリーは横梁の形状が本線とは異なっていました。他の区間同様、現在は特高部分が撤去されています。

間もなく見納め・特高ガントリー福駅東方にあった特高ガントリー。2系統6本の送電線が横一列に並ぶ(1996年)

間もなく見納め・特高ガントリー淀川橋梁では既存の架線柱の間に特高専用の一段ガントリーが設置されていたが、現在は撤去済み(1996年)

■西灘~石屋川

1967(昭和42)年に高架化された際に特高ガントリーが設置されていましたが、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災からの復旧に際して建て替えられてしまいました。震災前のガントリーは野田付近のと同様、送電線は6本横一列、柱脚部がピン構造です。

間もなく見納め・特高ガントリー当区間での特高ガントリーは写真が少ないのですが、柱脚部はピン構造なのが分かります(1987年)

憂歌団の楽曲も懐かしい阪神電車のTV-CF(1991年)。カケフ似の少年が見送るラストカットでは大石駅の立派な特高ガントリーが

諸事情により今ではほぼ壊滅状態となった特高ガントリーですが、実は送電線が撤去された以降もガントリーだけが残されている箇所が幾つかあります。それが何処にあるのか、車窓に探してみてはいかがでしょうか(というか誰か撮ってぇ)

追補:本線の特高送電線は3系統あった

特高送電線は、かつて3系統9本設置されていたということを教えていただきました。言われてみれば、【こちら】のお写真には、確かに特高ビームの上に5本、下に4本の送電線が見えます。(anotherunityさんよりご教示)

※3/15「追補:本線の送電線は3系統あった」を追記


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鷲羽

そろそろ60に手が届きそうなオッサン。90年代が阪神撮り鉄のピークゆえ、最近のネタには疎いです。


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