社会問題になった大阪都心の「開かずの踏切」
地上だった頃の福島駅界隈(1989年)
立体化率と冷房化率で民鉄トップの水準を誇った阪神電鉄ですが、梅田~野田間には開業以来の地上区間が残っており、浄正橋筋をはじめとする区間内に存在する6か所の踏切の閉鎖時間は延べ一日に10時間近くに達し、「開かずの踏切」として経済活動へのマイナス効果など、社会問題になっていました。
そこで大阪市の都市計画決定により当該区間の地下化が進められることとなり、1984(昭和59)年から事業着手し、当初は1988(昭和63)年に完成する予定でした。当時の計画では、梅田駅から地上に出る掘割区間を起点とし、そこから国道2号線の地下にオープンカット工法でトンネルを築造するものでした。福島駅は浄正橋筋との交差部付近の地下に設け、そのまま西進して国鉄大阪環状線との交差部手前、西成曲線付近で現在線に繋ぐ計画で、工事区間の延長は1,393mでした。
当初の地下化工事概要図。梅田側ではいったん掘割に出て、再び地下に潜る縦断線形(鉄道ピクトリアル452号より)
梅田駅の取付部をルート変更
工事着手されて間もなく、西梅田にあった国鉄コンテナヤードの廃止に伴う区画整理事業が行われることになり、区画整理の区域内にあった阪神本線も北寄りにルート変更し、区画整理区域内への地下プロムナードと一体化した二段構造の地下トンネルを建設することになったのです。
計画の変更によって、梅田駅のすぐ西側から新しい地下線に入り、そのまま下り勾配で国道2号の地下に入ります。ここで地上の既設本線と交差する延長225mの区間はシールド工法に変更されました。工事区間も1.660m(うち阪神単独事業区間560m)とやや長くなり、こうした設計変更もあって工事期間が伸び、一向に解消されない「開かずの踏切」は、TV人気番組「探偵ナイトスクープ」でも取り上げられたことも…。
計画変更された地下化工事の概要図(鉄道ピクトリアル640号より)
切替え工事で代行バスも
こうした紆余曲折はあったものの、その後の工事は概ね順調に進捗し、いよいよ1993(平成5)年9月に地下線へ切替えられることになりました。切替えが近づくと、地上線の名残を惜しんでカメラに収める人も見かけるようになります。工事も大詰めになり、地下区間では試運転も始まりました。
切替工事を数日後に控えた西成曲線を通過する8000系区間特急。既に切替用の線路が用意されています
仕上げ工事真っ最中の福島駅に停車する7861形2連の試運転列車。この編成は切替当日の試運転A列車に充当されました。
切替工事は9月4日(土)の夜間から翌5日(日)の朝にかけて行われ、9時頃まで梅田~野田間は運休となり代替バスが運行されました。なお野田側の線路切替地点では、旧線路盤の撤去後に再び線路が付け替えられています(隧道入口の幅が広いのはその名残)。